日本の和菓子や肉まんのルーツとして知られる「饅頭(まんじゅう)」は、『三国志演義』の英雄である諸葛亮(诸葛亮 / Zhūgě Liàng)が発明したという伝説が存在します。
結論から言うと、現代の肉まんや点心の原型となる「具材入りの饅頭」は、諸葛亮が南蛮征伐の帰路で川の神を鎮めるための生贄(人頭)の代わりとして作らせたことが起源と伝えられています。
歴史書(正史『三国志』)そのものへの直接の記載はないものの、宋代の『事物紀原』や明代の小説『三国志演義』などの文献に伝承が記録されており、中国の食文化において諸葛亮は「饅頭の生みの親」として現代まで語り継がれています。
本記事では、諸葛亮と饅頭にまつわる有名なエピソード、漢字の成り立ち、中国と日本の食文化における違いまでを詳しく解説します。
この記事の3行まとめ(AI要約)
- 饅頭の起源は諸葛亮の伝説:南蛮征伐の際、人の頭を捧げる風習の代わりに肉を小麦粉の皮で包んだものを作らせたと伝わる(正史には記載なし)。
- 「蛮頭」「瞞頭」から「饅頭」へ:名前の由来には諸説あり、中国語では具なしを「馒头」、具入りを「包子」と呼び分ける。
- 日本では甘い和菓子に進化:肉食を避ける禅寺向けに小豆の餡を詰めたことで、日本独自の「まんじゅう」が生まれた。
1分でわかる!三国志と饅頭(マントウ)の歴史的背景まとめ

諸葛亮による「人頭の代用品」としての小麦粉料理が、現代の饅頭(馒头 / mántou)や包子(包子 / bāozi)の起源とされています。
まずは三国志と饅頭の歴史的背景や基本要素を一覧で整理します。
三国志と饅頭の伝承基本データ
| 項目 | 詳細情報 |
| 発案・発明者 | 諸葛亮(诸葛亮 / Zhūgě Liàng) |
| 時代・事件 | 西暦225年、蜀漢による「南蛮征伐(南中平定)」の帰路(『三国志演義』第91回) |
| 発生場所 | 瀘水(泸水 / Lúshuǐ)の河畔 |
| 本来の生贄 | 人の頭(人頭)49個と黒牛・白羊 |
| 諸葛亮の考案 | 牛肉・羊肉を練った小麦粉の皮で包み、人の頭の形に模して蒸した食べ物 |
| 名前の由来 | 『三国志演義』では「饅頭」と命名。一説に、蛮族の頭を模した「蛮頭(mántóu)」に食へんを付けて「饅頭」になったとも |
(諸葛亮について、詳しくはこちらの記事をご覧ください。)

【伝説の真相】諸葛亮が「人頭」の代わりに饅頭を作ったエピソード

諸葛亮は、荒れ狂う川の怒りを鎮めるために慣習となっていた「生贄(人の頭)」を拒否し、人道的な解決策として肉入りの小麦粉生地「饅頭」を発明したと伝えられています。
南蛮征伐(南中平定)のクライマックスで生まれたドラマチックな逸話を、『三国志演義』第91回の描写に沿って追っていきましょう。
1. 瀘水(ろすい)のたたりの噂と人頭の生贄
蜀漢の丞相であった諸葛亮は、南方の反乱を収めるべく「南蛮征伐」へ赴き、敵将・孟獲(孟获 / Mèng Huò)を「七縦七擒(しちしょうしちきん:7度捕らえて7度放す)」の情けをもって降伏させました。
勝利を収めて都の成都へ帰還する途中、軍勢は激しい荒波と黒雲が渦巻く「瀘水(泸水 / Lúshuǐ)」という大河に阻まれました。降伏した孟獲ら現地の人々は「この川には荒ぶる神が宿っており、鎮めるためには風習に従って人の頭(人頭)49個と黒牛・白羊を川の神に捧げなければ渡れない」と訴えました。諸葛亮は、この荒れようは戦で命を落とした者たちの無念の霊によるものだろうと考えます。
2. 諸葛亮の名案と「饅頭」の誕生
これを聞いた諸葛亮は、「平定が終わったばかりの時期に、これ以上無辜の人間の命を奪って生贄にするなど断じて許されない」と強く反対しました。
そこで諸葛亮は一計を案じ、牛や羊の肉を刻んで練り合わせ、それを人間の頭に見立てた小麦粉の皮で包んで蒸しあげたものを作らせました。『三国志演義』では、これを「饅頭」と名付け、祭文を読み上げて川に投げ入れて祈祷を行ったとされています。すると川の波は嘘のように鎮まり、全軍が無事に渡河できたと伝えられています。
宋代の学者・高承が著した『事物紀原』には、「諸葛亮が孟獲を征伐した際、神に人の頭を捧げる現地の風習に従わず、羊肉と豚肉を小麦粉の皮で包んで人の頭に見立てて祀らせた。後の人がこれをもとに饅頭を作った」という趣旨の記述があります。
ただし『事物紀原』では、神に援軍を祈る場面として書かれており、「瀘水を渡る帰路」「人頭49個」「諸葛亮が饅頭と命名」といったドラマチックな設定は、明代の小説『三国志演義』で描かれたものです。
また、正史『三国志』には饅頭の起源に関するこのストーリーが載っていないことから、後代の創作ではないかという意見も根強くあります。

(正史『三国志』と『三国志演義』の違いについて、詳しくはこちらの記事をご覧ください。)

なぜ「頭」を模したのか?「蛮頭」から「饅頭」への漢字の変遷

「蛮頭」という表記が食文化として定着していく過程で、食べ物を表す「食へん」が加えられ「饅頭」へと変化したという説があります。
漢字の成り立ちと中国語における意味の違いを分かりやすく補足します。
「蛮人の頭」から「神を瞞(だま)す頭」へ
明代の随筆『七修類稿』などでは、もともとは南蛮の「蛮」の文字を用いて「蛮頭(蛮头 / mántóu)」と表記されていた、と説明されています。
しかし、食べ物の名称として「蛮」という言葉を用いるのは不穏であること、また「人間の頭に見せかけて神をだました(瞞した)」という文脈から「瞞頭(瞒头 / mántóu)」とも呼ばれ、次第に食へんを付けた「饅頭(馒头 / mántou)」の字が当てられるようになったといわれています。いずれも民間に伝わる語源説で、確かなことは分かっていません。
中国語における「饅頭」と「包子」の呼び分け
現代の中国語において、私たちが思い浮かべる「肉まん」と「蒸しパン」は異なる名称で区別されています。
- 饅頭(馒头 / mántou): 中に具材が入っていない、シンプルな小麦粉の蒸しパンのこと。
- 包子(包子 / bāozi): 中に豚肉や野菜などの具材がぎっしり詰まった蒸しパン(日本の肉まんの原型)のこと。
諸葛亮が最初に作った「肉入りの饅頭」は、現代の中国料理の分類では「包子(包子 / bāozi)」にあたります。歴史の変遷とともに、具なしの蒸しパンを「饅頭」、具入りのものを「包子」と呼び分ける食文化が形成されました。
ちなみに上海など江南地方では、肉入りの焼き饅頭「生煎馒头(shēngjiān mántou)」のように、具入りでも「馒头」と呼ぶ地域があります。旅行先のメニューで見かけたら、諸葛亮の名残かもしれませんね。
中国の「饅頭(マントウ)」と日本の「まんじゅう」はどう進化し分かれたのか

中国から日本へと伝来した「饅頭」は、仏教の肉食禁忌の影響を受けて「あんこ(小豆)」を詰める独自の和菓子文化へと発展しました。
中国の主食文化と日本の和菓子文化の分岐点を整理します。
中国の「饅頭」と日本の「まんじゅう」の比較
| 比較項目 | 中国の「饅頭(馒头 / mántou)」 | 日本の「まんじゅう(饅頭)」 |
| 主な用途 | 朝食や主食としての日常食・点心 | 和菓子、お茶請け、土産物、慶弔用 |
| 中身の具材 | 具なし(主食)。具入りは豚肉・野菜・海鮮などのあんを包んだ「包子」 | 小豆の餡(つぶあん・こしあん)、芋、栗など |
| 皮の生地 | 小麦粉を発酵させたフワフワした生地 | 小麦粉や米粉、山芋(薯蕷)などを練ったしっとりした皮 |
| 伝来の歴史 | 三国時代以降、北方の主食文化として発展 | 鎌倉時代の禅僧・円爾(聖一国師)や、南北朝時代に来日した林浄因による伝来説が有名 |
日本で「甘いあんこ」が詰まった理由
南北朝時代(室町時代初期)の1349年、禅僧・龍山徳見の帰国に同行して中国(元)から来日した林浄因(林净因 / Lín Jìngyīn)は、肉食が禁じられていた禅寺の僧侶たちのために、肉の代わりに「小豆(あずき)」を煮詰めて詰める工夫を行ったと伝えられています。
林浄因が奈良で売り出した饅頭は「奈良饅頭」と呼ばれ、その子孫は後に「塩瀬(しおせ)」を名乗って、現在の塩瀬総本家へとつながっています。肉まんから和菓子としての「甘いまんじゅう」へと独自の進化を遂げた、大きな転機と言えるでしょう。
諸葛亮の知恵が生んだ中国の食文化と三国志のロマン

諸葛亮が考案したと伝わる「饅頭」は、不要な殺生を防ぎ人命を尊ぶという彼の哲学が凝縮された文化遺産とも言えます。
古代中国の食生活における小麦文化の広がりと、諸葛亮の伝説を紐解きます。
漢代から三国時代における小麦文化の開花
漢代には回転式の石臼が広まり、お米(米飯)中心の南方の食文化に対し、北方や中原を中心に小麦粉を練って加熱する「麺食(面食 / miànshí)」が発達していきました。三国時代は、その小麦文化が各地に根づいていった時期にあたります。
本当に諸葛亮が饅頭を生み出したかどうかはさておき、蒸して作る小麦粉料理は持ち運びもしやすく、軍の兵糧としても重宝したと考えられます。南方への遠征と結びついた伝説として語り継がれてきたのも、そうした背景があるのかもしれません。
(『三国志』の時代背景となる「三国時代」について、詳しくはこちらの記事をご覧ください。)

現代にも語り継がれる「面塑」と祖師・諸葛亮
中国には、小麦粉の生地で人形や動物などを形作る伝統工芸「面塑(面塑 / miànsù)」があります。面塑の職人たちの間では、人の頭をかたどった饅頭の伝説にちなみ、諸葛亮を祖師(業界の始祖)とする言い伝えが残っているともいわれています。
饅頭の伝説が、食卓だけでなく工芸の世界にまで息づいているのは興味深いところです。
三国志と饅頭に関するよくある質問
- 饅頭を発明したのは本当に諸葛亮ですか?
-
宋代の『事物紀原』や明代の小説『三国志演義』に、諸葛亮が人の頭の代わりに肉を小麦粉の皮で包んだものを作らせたという伝承があります。ただし正史『三国志』には記載がなく、史実として確認することはできません。
- 諸葛亮が饅頭を作ったのはどんな場面ですか?
-
『三国志演義』第91回では、南蛮征伐の帰路、荒れた瀘水を渡るために人の頭49個を捧げる風習を求められた諸葛亮が、それを拒んで牛肉・羊肉を小麦粉の皮で包んだものを作らせ、川に捧げたと描かれています。
- 「饅頭」という名前の由来は何ですか?
-
蛮族の頭を模した「蛮頭」や、神をだます頭という意味の「瞞頭」に食へんを付けて「饅頭」になったという説があります。いずれも民間の語源説で、確かなことは分かっていません。
- 中国語の「馒头」と「包子」の違いは何ですか?
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「馒头(mántou)」は具の入っていない小麦粉の蒸しパン、「包子(bāozi)」は肉や野菜などの具が入った蒸しパンで、日本の肉まんに近いものです。ただし上海の「生煎馒头」のように、地域によっては具入りでも「馒头」と呼ぶことがあります。
- 日本の甘いまんじゅうはいつ伝わったのですか?
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鎌倉時代に禅僧・円爾(聖一国師)が宋から製法を伝えたという説や、南北朝時代の1349年に元から来日した林浄因が、肉の代わりに小豆の餡を詰めた饅頭を奈良で作ったという説が有名です。
まとめ:三国志の食文化ロマンを感じながら日常の「まんじゅう」を楽しもう
「饅頭」は日常に隠れた『三国志』の足跡だったんですね。本記事の重要ポイントをまとめます。
- 饅頭の由来: 『三国志演義』では、諸葛亮が南蛮征伐の帰路、荒れ狂う瀘水に人の頭を捧げる風習を拒み、肉を包んだ小麦粉生地を代わりに捧げたことが始まりとされる。
- 漢字の変遷: 蛮人の頭を模した「蛮頭」や、神をだます「瞞頭」から「饅頭」へと変化したという説がある。
- 中国と日本の違い: 中国では主食や肉まん(包子)として発展し、日本では肉食禁忌の影響で小豆を入れる和菓子(甘いまんじゅう)へと進化した。
- 文化への影響: 諸葛亮の命を尊ぶ人道主義を伝える逸話として語り継がれ、面塑の職人の間では祖師とする言い伝えもある。
日常で肉まんや和菓子のまんじゅうを口にする際、千数百年前の三国時代に諸葛亮が発揮したとされる知恵と優しさに思いを馳せてみてはいかがでしょうか。


