現代では、モンゴルと中国は別々の国として存在していますが、歴史を辿ると、モンゴルが中国を支配していた時代があることを、覚えている方はいますでしょうか。学生時代の歴史の授業でも出てくる元王朝の時代です。歴史と聞くと、難しいと感じて距離を置いてしまいそうですが、歴史を学ぶことはその国の言語を知るということでもあります。
本記事では、元王朝の誕生から滅亡までの時代を解説し、中国語との関わりにも触れながらご紹介しています。
この記事の3行まとめ(AI要約)
- 元王朝は遊牧民モンゴル人が中国全土を初めて統一した王朝で、現在の北京の前身「大都」を建設し東西交易を活性化させるなど、現代中国の地理・文化・言語に深く影響を残している。
- 科挙停止による知識人の活躍の場が演劇・文学に移り、口語で書かれた大衆文化「元曲」が生まれたことで、現代中国語の口語表現のルーツのひとつとなっている。
- 財政悪化・ペスト・反乱が重なり100年で崩壊した元の後に明が漢民族の言語文化を復興させたことが、現代の普通话(pǔtōnghuà)へとつながる歴史的な流れになっている。
元王朝の歴史|遊牧民が「中国の皇帝」だった
中国の歴史を学ぶと、王朝の交代は基本的に反乱が起き、旧王朝が倒れ、新しい皇帝が生まれる繰り返しで、漢民族の内輪もめとして描かれることが多いです。
しかし元は、反乱から始まるのではなく、外からやってきた遊牧民が中国全土を支配していた王朝であるという点が大きな違いです。
1279年に南宋を滅ぼして中国統一が完成し、北方遊牧民による中国全土の支配は、これが歴史上初めてのことでした。
元(yuán)という言葉は、現代中国語では通貨単位としても使われています。普段何気なく触れている通貨が歴史をたどると王朝の名であったということを知るだけで、歴史と言語の繋がりが少しだけ身近に感じられるのではないでしょうか。
元とモンゴル帝国|史上最大の帝国

チンギス・ハンの死後、帝国は4つのハン国に分かれましたが、元はその中で宗主国的な立場を持っていました。
この時代はパクス・モンゴリカと呼ばれています。モンゴルによる平和を意味するラテン語が由来となっており、ローマ帝国のパクス・ロマーナにちなんで命名されました。別名パクス・タタリカ(タタールの平和)とも呼ばれます。この時代に広大な領土が安定して管理されたことで、ユーラシア大陸を横断する交易路が機能し、東西の人と物と情報が行き来するようになったと言われています。
マルコ・ポーロが元の都・大都を訪れたのもこの時期です。彼が書き残した『東方見聞録』がヨーロッパ人の東洋への関心のきっかけとなった有名な話ですが、その旅が実現したのも、モンゴルによる安定した交通網あってのことでした。
日本への遠征(1274年・1281年)も、この時代の出来事です。2度の暴風雨により撤退し、神風伝説のもとになったことは日本の歴史とも大きな関わりがあるエピソードとして知られています。
元王朝の皇帝たち|フビライの後に何が起きたか

フビライ・ハンは約35年もの間、王として存在し、この期間に建設された大都が、現在の北京の前身となっています。
碁盤の目状に整備された街路、多様な民族が集まる国際都市として、当時のアジアで最も洗練された都市のひとつでした。現代中国の首都である北京は、当時から注目を浴びる都市であったことを知ると、北京がどういった歴史を辿ってきたのか、変遷を知り中国への理解を深めるきっかけにもなるはずです。
遊牧民から始まった元は、1294年から滅びる1368年までの約70年間に、皇帝が10人以上交代しました。2〜3年で退位や暗殺によって退く皇帝が相次ぎ、最後を迎えることとなります。
元王朝の支配体制|四等民族制と言語の歴史
元の支配体制を一言で表すなら、生まれた民族で人生が決まる社会です。
モンゴル人を頂点に、色目人(中央アジア出身の人々)、漢人(旧金王朝の領域の人々)、南人(旧南宋の領域の人々)という四つの階層が設けられました。同じ罪を犯しても科される刑罰が違い、就ける官職にも露骨な差がありました。支配する側が自分たちに都合よく法律を作り上げていた社会です。
なかでも漢人・南人のエリート層には、特に大きな打撃がありました。科挙の停止です。科挙とは、試験の成績で官僚になれる制度のことを指します。家柄に関係なく実力で出世できるこの仕組みは、長年にわたって漢民族の知識人層を支えてきました。それが元の時代に一時停止され、どれだけ勉強しても報われない時代が続くことになります。高位の官職はモンゴル人か色目人が優先的に占め、漢人が実力で登り詰められる席はほとんど残っていませんでした。
しかし知識人たちは頭の良さを活かし、別の場所に活路を見出しました。官僚になれないなら、物書きの世界で勝負しようと、文学と演劇の世界で活躍し、そこから生まれたのが元曲です。
元曲とは、歌とセリフで構成される歌劇(雑劇)や詩歌(散曲)の総称です。
元曲の面白いところは、難しい文語ではなく当時の口語で書かれていることです。市場で飛び交う言葉、庶民が憩いの場で使う表現、そういった生きた言葉がそのまま作品に反映されていました。
代表作のひとつ西廂記(せいそうき)は、身分違いの恋を描いたラブストーリーです。当時の中国でベストセラーになり、庶民から貴族まで広く読まれました。堅苦しい古典文学とは違い、登場人物が生き生きとした言葉で話す、それが元曲の最大の魅力でした。
こうした大衆文化が花開いた背景には、都市の発展もあります。元の大都には各地から人が集まり、商人・職人・芸人が混在する活気ある街が生まれました。元曲はそういう場所で演じられ、消費がされていった文化です。
中国という国の歴史を辿ると中国語との繋がりが見え、当時の言語スタイルや口語の雰囲気などを知ることができ、言語がどう変化してきたのかという歴史とセットでより深い理解に繋がるのではないでしょうか。
元王朝の滅亡|100年で崩壊した理由

強大な帝国がなぜ100年で終わったのでしょうか。原因はひとつではなく、複数の問題が重なり合って崩壊していきました。
まずは財政です。日本遠征の失敗、大規模な土木工事、増え続ける宮廷の出費など、収入が追いつかなくなった元は、紙幣を刷り続けることで穴を埋めようとしました。その結果、インフレが起き、庶民の生活は急激に苦しくなっていきます。
さらに14世紀半ば、ユーラシア全土を席巻したペストが中国にも到来します。農村は壊滅的な打撃を受け、人口が激減した地域では農地が荒れ、食料不足が深刻化しました。政府への不満が限界に達し、各地で反乱の火が上がり始めます。
なかでも紅巾の乱(1351年〜)は規模が大きく、白蓮教という宗教結社を核にした大規模な蜂起で、元はこれを鎮圧しきれないまま滅亡へと進んでいきます。そして、反乱軍は各地で割拠し、中央が全土をコントロールできる状況ではありませんでした。
この混乱の中から頭角を現したのが朱元璋です。両親を幼くして亡くし、托鉢僧として生きた時期もある貧農出身です。圧倒的な軍事力だけでなく、民の心を掴む政治的な嗅覚も持ち合わせていました。
そして、朱元璋は1368年に明王朝を建国しました。元の最後の皇帝トゴン・テムルはモンゴル高原へ撤退し、元王朝は終わりを迎えます。撤退後も北元として存続を試みますが、かつての勢いを取り戻すことはありませんでした。
明は漢民族の文化と言語を意識的に復興させます。この時代に整備された標準的な中国語の基礎が、現代の普通话(pǔ tōng huà)へと繋がっていきました。
今わたしたちが学んでいる中国語は、元を辿ると元王朝の滅亡と明による文化復興が背景にあることが良くわかります。
まとめ
元王朝の100年は、征服・混乱・崩壊の歴史だけでなく、その時代に生まれた文化や言葉が今の中国語にも残っています。
元(yuán)という通貨の名前、北京の街の骨格、元曲が育てた口語表現など、歴史を知ると、言葉の背景が見えてきます。
中国語は難しいイメージを持たれがちですが、こうして歴史と結びつけながら学ぶと、単語ひとつひとつに意味が生まれて覚えやすくなります。少しの興味からぜひ、中国語と中国の歴史に触れてみませんか。

