漫画『キングダム』(原泰久/集英社)で屈指の盛り上がりを見せる「合従軍編」。2026年7月17日に公開された実写映画第5作『キングダム 魂の決戦』でも描かれる、シリーズ最大級のエピソードです。
その舞台となった「函谷関(かんこくかん)の戦い」は、紀元前241年に実際に起きた歴史上の防衛戦です。
結論から言うと、この戦いは「秦の防衛成功・合従軍の敗走」で幕を閉じ、秦に対抗する大規模な連合はこれが最後となりました。以後、秦の東進を本気で止められる勢力はいなくなります。
この記事では、史料に残る合従軍の編成、5カ国連合軍が負けた3つの理由、難攻不落の要衝「函谷関」の役割、そして作中との違いや河南省にある現在の観光スポット情報まで詳しく解説します!
この記事の3行まとめ(AI要約)
- 函谷関の戦いは紀元前241年に秦が5カ国連合軍(合従軍)の侵攻を防ぎ切った、中国戦国時代最後の大規模な合従であり、これ以降、秦に本気で対抗できる勢力はいなくなった歴史の分岐点。
- 合従軍が敗れたのは「打倒・秦」以外に共通目的がなく各国が損害を避けたこと、盟主・楚が遷都直後だったこと、函谷関が大軍を展開できない狭隘な地形だったことの3つが主因。
- 漫画『キングダム』とは違い史実の参加国は斉を含まない5カ国、合従軍を率いたのは李牧ではなく趙の龐煖で、信・王翦・桓騎らのこの戦いでの活躍は史料に残っていない。
函谷関の戦いとは?歴史を動かした大規模防衛戦の概要
函谷関の戦いとは、紀元前241年に秦と5カ国連合軍(合従軍)の間で起きた、中国戦国時代最後の大規模な合従(がっしょう=反秦連合)の戦いです。
戦国七雄の時代から、秦が着実に頭角を現していた時代です。詳しい時代背景は以下の記事をご覧ください。

きっかけは、その前年の出来事でした。紀元前242年、秦の将軍・蒙驁(もうごう)が魏を攻めて20あまりの城を奪い、新たに東郡(とうぐん)を設置します。これによって秦は多くの国と直接国境を接することになり、「次は自分の国かもしれない」という危機感が一気に高まったのです。
滅亡の恐怖を共有した国々が一時的に手を結び、こうして最後の合従軍が動き出しました。
函谷関の戦いの基本データ一覧
| 項目 | 史料から分かること |
| 発生年 | 紀元前241年(秦の始皇6年・中国戦国時代末期) |
| 発生場所 | 函谷関(現在の中国・河南省三門峡市霊宝市) |
| 対戦構図 | 秦(防衛側) vs 楚・趙・魏・韓・燕の5カ国連合軍(攻撃側) |
| 合従軍の首脳 | 楚の考烈王が従長(盟主)、実務は春申君、軍事面の主導は趙の龐煖 |
| 兵力 | 双方ともに記録が残っていない |
| 勝敗・結果 | 秦の防衛成功(合従軍は函谷関で敗走) |
| 主な史料 | 『史記』秦始皇本紀・趙世家・楚世家・春申君列伝(いずれも記述は非常に短い) |
| 歴史的意義 | 秦に対抗する大規模な連合はこれが最後となった |
合従軍を退けたことで秦の優位は決定的になり、この戦いは中国大陸の歴史が動く分岐点のひとつとなりました。
漫画『キングダム』と史実の違いは?合従軍の参加国と将軍
作品で描かれる合従軍の戦いは大筋で史実に沿っているものの、参加国の数や武将の配置には、エンターテインメントとしての脚色が含まれています。
そもそも『史記』に残るこの戦いの記述は、4カ所を合わせても数十字ほど。「誰がどこでどう戦ったか」という細部は、ほとんど分かっていないのです。
そのうえで、史料に名前が確認できる陣営構成は以下の通りです。
史実で名前が確認できる合従軍と秦軍の主要人物
| 陣営 | 参加国・役割 | 史料に名前が残る人物 |
| 合従軍(攻撃側) | 楚(従長・盟主) | 考烈王(名目上の盟主)、春申君(実務を統括) |
| 趙 | 龐煖(ほうけん・軍事面の主導者) | |
| 魏 | 景湣王(けいびんおう)※将軍名の記録はなし | |
| 韓 | 桓恵王(かんけいおう)※将軍名の記録はなし | |
| 燕 | 参加は伝わるが将軍名の記録はなし | |
| 秦軍(防衛側) | 秦 | 呂不韋(相邦として国政を握っていた人物。総指揮を執ったと考えられている)※函谷関で指揮した将軍は不明 |
※『史記』秦始皇本紀は5カ国を「韓・魏・趙・衛・楚」と記しており、燕ではなく衛(えい)が挙げられています。書き写しの誤りとする見方もあります。
※斉(せい)は合従軍に参加せず、秦とは事を構えない立場を取り続けました。
史料上、合従軍を実質的に動かしたのは楚の宰相である春申君と、趙の将軍龐煖です。作中の劇的な演出と、史料に残るわずかな枠組みを見比べると、作品の読み方がぐっと深くなります。
作中の合従軍は6カ国、史実は5カ国

作中および映画『キングダム 魂の決戦』では、斉を含む6カ国が合従軍を結成し、趙の李牧がこれを主導する構図で描かれます。
一方の史実では、斉は最初から連合に加わっていません。長平の戦い以降の斉は他国の戦いに深く関わらない姿勢を取っており、秦を攻める側には立ちませんでした。
しかも、この温度差は戦いのあとにはっきり表れます。函谷関で敗走した合従軍は、そのまま矛先を斉に変えて饒安(じょうあん・現在の河北省滄州市一帯)を攻め取り、それから解散したのです。
合従軍を率いたのは李牧ではない?史実の主導者は趙の龐煖
作中で合従軍の総大将を務める李牧(りぼく)は、史実でも趙を代表する名将です。ただし紀元前241年の函谷関の戦いに、李牧が関わったという記録はありません。
『史記』趙世家によれば、この年に趙・楚・魏・燕の精鋭を率いて秦領に攻め込んだのは龐煖です。李牧が対秦戦の前面に立ち、秦軍を何度も撃退する「趙の壁」として名を残すのは、紀元前236年以降のことになります。
龐煖は道家の思想を学び、兵法書も著したとされる異色の将軍です。前年に燕の名将を討ち取って一気に名声を上げ、その勢いのまま合従軍の軍事面を担いました。
信(李信)や桓騎・王翦は史実でどこにいた?
作品内で目覚ましい活躍を見せる武将たちですが、史実の函谷関の戦いに関する記録は、キャラクターによって大きく異なります。
- 信(李信)
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作中では飛信隊を率いて戦功を挙げますが、この時点の『史記』に李信個人の記述はありません。史書に名前が現れるのは紀元前3世紀の後半で、王賁(おうほん)とともに燕や斉の地を平定したと記録されています。もっとも、楚攻めでは大敗を経験してもいる、山と谷のある将軍です。
- 桓騎(かんき)
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史実にも実在する秦の将軍です。ただし函谷関の戦いの時期の記録はなく、名前が見えるのは紀元前236年の鄴(ぎょう)攻略以降。その後は平陽の戦いなどで敵将を討ち取り、目覚ましい軍功を挙げた人物として記録されています。
- 王翦(おうせん)
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後に楚や趙を滅ぼす「秦国最強の将軍」ですが、史書への初登場は紀元前236年の鄴・閼与(あつよ)攻略です。函谷関の戦いに参加したという記録はありません。作中で早くから存在感を放つのは、作品ならではの見せ方といえます。
- 蒙驁(もうごう)
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前年に魏を攻めて東郡を設置し、いわば合従軍結成の引き金を引いた人物です。函谷関で指揮を執った将軍は史料上不明ですが、過去の戦歴から蒙驁が当たったのではないかと推測されています。なお蒙驁は、この戦いの翌年に世を去りました。
- 劇辛(げきしん)
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作中では燕の将として合従軍に加わりますが、史実の劇辛は函谷関の戦いの前年(紀元前242年)に趙へ攻め込み、龐煖に敗れて戦死しています。つまり史実では、この戦いの舞台に立つことはできませんでした。
ちなみに劇辛は旧友だった龐煖を「あいつなら楽に相手できる」と評して出陣し、あっさり討たれてしまいました。史実のほうが、なかなか強烈です。
数で勝る合従軍はなぜ負けたのか?秦が守り切った3つの理由

5カ国が力を合わせたにもかかわらず合従軍が敗れた最大の理由は、「連合軍内部の利害のズレ」と「函谷関という地形」にあると考えられています。
合従軍は「打倒・秦」で結束したものの、一枚岩にはなれませんでした。具体的には、以下の3つの要因が挙げられます。
- 1.「打倒・秦」以外に共通の目的がなかった
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参加国はいずれも、自国の兵力を大きく損なうことを恐れていました。先陣を切って大損害を出せば、戦後に他国から狙われるリスクがあったからです。この結束の弱さを示すのが、撤退後の行動です。合従軍は解散前に、連合に加わらなかった斉を攻めて城を奪っています。共通の敵より、目の前の取り分。連合の内実がよく表れた結末でした。
- 2. 盟主であるはずの楚が本気を出せなかった
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名目上の盟主は楚の考烈王でしたが、楚はまさにこの年、都を郢(えい)から寿春(じゅしゅん)へ移しています。遷都のさなかに大軍を送る余裕はなく、実質的に連合を引っ張ったのは秦への恨みが深い趙だったとする見方もあります。旗を掲げた国と、戦った国が違っていたわけです。
- 3. 函谷関の「大軍を無効化する」特殊地形
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後述の通り、函谷関は大軍を展開できない極端な狭隘(きょうあい)地形にありました。何万の兵を集めても、最前線で戦える人数は限られます。人数の暴力が、そもそも通用しない戦場だったのです。
合従軍の敗北は、単純な武力差ではなく連合の足並みの乱れと、地形の優位を活かし切った秦の守りによるものでした。なお、秦が豊富な資金で他国の重臣を買収し、内部から崩す手法を得意としていたことは各所に記録されていますが、この戦いに関する具体的な工作の記録は残っていません。
難攻不落の要衝「函谷関」が果たした軍事的な役割

函谷関は、ごく少数の兵で大軍を止められる中国屈指の要害でした。
西は高原、東は深い谷、南は秦嶺山脈、北は黄河。四方を天然の障壁に囲まれた谷間にあり、関城は東西7.5キロにわたる一方で、道幅はわずか数メートル。「車は並んで通れず、馬は横に並べない」と伝わるほどの狭さです。
攻める側も、ただ見ていたわけではありません。城壁を越えるための雲梯(うんてい)のような攻城兵器は、すでに戦国時代から使われていました。それでも函谷関が破られなかったのは、道が狭すぎて兵器を運び込む余地すらなかったからです。
だからこそ秦は、数で圧倒されながらも猛攻を防ぎ切ることができたのです。
中国語では、この地の険しさを表す成語や表現がいくつも残っています。
中国語で覚える「函谷関」を表す成語・表現
- 一丸泥封函谷关(yī wán ní fēng hán gǔ guān)
【意味】「ほんのひとつまみの泥で函谷関を封じられる」。わずかな兵力でも大軍を防ぎ切れる要害であることのたとえで、『後漢書』に由来します。短く丸泥封关(wán ní fēng guān)とも言います。 - 一夫当关,万夫莫开(yī fū dāng guān, wàn fū mò kāi)
【意味】「一人が関を守れば、一万人でも突破できない」。李白の詩『蜀道難』に由来する表現ですが、現在の中国でも函谷関を紹介する定番のフレーズとして使われています。 - 紫气东来(zǐ qì dōng lái)
【意味】「東から紫の気が立ちのぼる」。老子が函谷関を通る際、関の役人・尹喜(いんき)が紫の雲気を見て貴人の到来を知ったという伝説から生まれた表現で、めでたい兆しを表します。今も春節の飾りなどで見かける言葉です。
函谷関は現在どうなっている?中国・河南省の歴史的観光スポット
現在の函谷関は、中国・河南省三門峡市霊宝市(れいほうし)にある歴史文化観光地として整備されており、一般見学が可能です。
戦国時代の関所そのものは戦火で失われましたが、1987年に太初宮が修復され、1992年には地元政府が古い図をもとに関楼(城門)を再建。国家AAAA級の観光地として、当時のスケール感を体感できる場所になっています。
※函谷関は歴史上、複数の場所に置かれました。戦国時代の「秦関」は霊宝市北部の王垛村(おうたそん)にあり、後漢の「漢関」は洛陽市新安県に東遷しています。訪ねる際は行き先の確認を。
現在の函谷関の見どころとアクセス情報
- 再建された巨大な関楼(城門)
当時の様式を模した城楼がそびえ立っています。城壁の上に立つと、防衛側(秦)の視点から「いかに攻めにくい地形か」が一目で分かります。 - 太初宮(老子ゆかりの聖地)
函谷関は軍事拠点としてだけでなく、老子が『道徳経』を書き残した場所としても有名です。その伝承地に建てられた道観が太初宮で、今も国内外から道家・道教の関係者が訪れます。 - 鶏鳴台・函関古道
孟嘗君が鶏の鳴き真似で関を開けさせたという「鶏鳴狗盗(jī míng gǒu dào)」の故事にちなむ鶏鳴台や、当時の街道跡である函関古道も残っています。
西安(旧長安)や洛陽から高速鉄道(高铁)を利用し、「霊宝西駅」で下車してタクシーで約40分が最短ルートです。「三門峡南駅」からも行けますが、こちらはタクシーで1時間前後かかります。景区周辺は流しのタクシーが少ないため、往復での交渉をおすすめします。
歴史的背景を学んだうえで現地を訪れることで、単なる観光を超えた深い文化体験が可能になります。
函谷関の戦いに関するよくある質問

- 函谷関の戦いは本当にあった戦いですか?
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実際にあった戦いです。紀元前241年に5カ国が秦を攻め、函谷関に至って敗走したことが『史記』に記されています。ただし記述は非常に短く、兵力や個々の武将の動きまでは分かっていません。
- 合従軍が負けた理由は何ですか?
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「打倒・秦」以外に共通の目的がなく各国が損害を避けたこと、盟主の楚が遷都直後で大軍を送れなかったこと、そして函谷関が大軍を展開できない地形だったことが主な理由と考えられています。
- 合従軍を率いたのは李牧ですか?
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作品では李牧が合従軍を主導しますが、史実で紀元前241年に連合軍の精鋭を率いたのは趙の龐煖です。李牧が対秦戦の前面に立つのは紀元前236年以降になります。
- 合従軍に参加したのは5カ国ですか、6カ国ですか?
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史実では楚・趙・魏・韓・燕の5カ国で、斉は加わっていません。作品や映画では斉を含む6カ国連合として描かれます。史実の合従軍は撤退後、参加しなかった斉を攻めて解散しました。
- 函谷関は今も見学できますか?
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見学できます。河南省三門峡市霊宝市にある函谷関歴史文化観光区として整備されており、再建された関楼や太初宮などを見ることができます。高速鉄道の霊宝西駅からタクシーで約40分です。
まとめ:函谷関の戦いの史実を知り中国歴史の理解を深めよう!
函谷関の戦いは、秦に対抗する最後の大規模な連合が崩れた、中国史の分岐点となる防衛戦です。
- 史実の概要:紀元前241年、秦が5カ国連合軍(合従軍)の侵攻を防ぎ切った戦い
- 敗北の理由:各国の利害のズレ、盟主・楚の事情、函谷関の特殊地形
- 作中との違い:参加国は史実5カ国・作中6カ国。合従軍の主導者は李牧ではなく龐煖で、信や王翦の活躍はこの戦いには記録がない
- 現在の様子:河南省三門峡市霊宝市の観光地として再建され、見学可能
史料に残っていることと、物語として描かれたこと。その境目を知ると、映画や漫画の1シーンがまったく違う顔を見せてくれます。そしてそれは、中国の文化や言語を学ぶうえでの大きなモチベーションにもなります。
激動の時代の裏側に触れ、さらに深い中国歴史の魅力に踏み出してみましょう!


