鄴は今のどこ?河北省邯鄲市に残る古都と史実の鄴攻略戦|キングダムとの違いも解説

鄴は今のどこ?河北省邯鄲市に残る古都と史実の鄴攻略戦|キングダムとの違いも解説

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古代中国の歴史や漫画『キングダム』(原泰久/集英社)で一躍脚光を浴びた都市「鄴(ぎょう)」。結論から言うと、現在の中国河北省邯鄲市臨漳県(りんしょうけん)に位置します。太行山脈の東に広がる華北平原の一角で、趙の都・邯鄲の喉元を押さえる絶対的な要衝でした。

史実の紀元前236年「鄴攻略戦」は、秦の王翦(おうせん)らが趙の隙を突いて攻め落とした戦い。この記事では、鄴の読み方と現代の場所から、『史記』が伝える作戦の中身、『キングダム』との違い、いま現地に残る遺跡の見どころまでをまとめて解説します。戦国時代そのものの流れをおさえてから読むと、面白さが倍増しますよ。

目次

この記事の3行まとめ(AI要約)

  • 漫画『キングダム』で有名な古都・鄴(ぎょう)は、現在の中国河北省邯鄲市臨漳県に位置し、趙の都・邯鄲の喉元を押さえる絶対的な要衝だった。太行山脈と漳河に守られた地形が歴代王朝に重視された理由。
  • 史実の「鄴攻略戦」は紀元前236年、趙が燕へ出兵した隙を突き、王翦・桓齮・楊端和の3将が攻め込み、18日目に軍を再編して鄴・安陽を占領した戦いで、『史記』にわずか数十字で記録されている。
  • 『キングダム』の「列尾の罠」「朱海平原の戦い」などは史料に記録がない大胆な創作で、鄴はその後も曹操の銅雀台跡や2,895件の仏像が出土した「三国故地、六朝古都」として今も残る。

鄴の読み方と現代の位置|中国・河北省邯鄲市のどこにある?

図1|鄴の位置関係(模式図) 太行山脈 華北平原 漳河(しょうが) 約40〜50km 邯鄲(趙の都) 今の河北省邯鄲市の中心部 今の河北省邯鄲市臨漳県 安陽 今の河南省安陽市 N ※位置関係を示す模式図で、縮尺や河川の流路は正確ではありません
図1:趙の都・邯鄲のすぐ南に位置する鄴

「鄴」の日本語読みは「ぎょう」。中国語では簡体字で「邺」と書き、ピンインは「Yè(イエ・第4声)」です。現在の行政区分では、中国河北省邯鄲市臨漳県にあたります。

古代の鄴は、太行山脈の東に開ける華北平原の西寄りにあり、南側を漳河(しょうが)が流れていました。平野部の交通の便に恵まれながら、山と川に守られた防衛拠点にもなる。だからこそ戦国時代から三国志の魏、南北朝の東魏・北斉に至るまで、歴代王朝が都や軍事拠点として重視し続けた土地です。

項目内容中国語表記・ピンイン
日本語読みぎょう邺(Yè)
現代の所在地中国河北省邯鄲市臨漳県河北省邯郸市临漳县(Héběi shěng Hándān shì Línzhāng xiàn)
近隣の主要都市邯鄲市の中心部から南へ約40〜50km邯郸(Hándān)
関係する主要河川漳河(しょうが)漳河(Zhāng Hé)

そして何より、趙の都「邯鄲(かんたん)」の目と鼻の先(南へ約40〜50km)という立地。秦が趙を攻めるうえで、鄴はどうしても押さえておきたい「南の玄関口」だったのです。

ちなみに鄴は、もともと魏の街でした。戦国前期には魏の名臣・西門豹(せいもんひょう)が長官として治水と灌漑に取り組んだ地。趙のものになったのは『史記』趙世家によれば紀元前239年ごろで、秦に奪われるわずか3年前のことです。趙にとっては「手に入れたばかりの要衝をあっという間に取られた」という展開でした。

中国語学習者のためのワンポイント解説

「鄴」は現代中国語の簡体字で「邺(Yè)」。都市としては「邺城(Yèchéng)」、遺跡は「邺城遗址(Yèchéng yízhǐ)」と表記します。現地でよく使われるキャッチコピーは「三国故地,六朝古都(sānguó gùdì, liùcháo gǔdū)」=三国志の舞台であり、六つの王朝の都、という意味です。

史実における「鄴攻略戦(紀元前236年)」とは?『史記』が語る王翦の18日

図2|紀元前236年 鄴攻略戦の流れ(『史記』にもとづく) 前239年ごろ 前236年 同 年 同 年 18日目〜 魏が鄴を趙に譲る(『史記』趙世家「魏与趙鄴」) 趙軍が燕へ出兵し、貍(り)・陽城を取る → 軍が帰らないうちに、国内の南方が手薄になる 秦の王翦・桓齮・楊端和が趙へ侵攻 → まず鄴の周辺で9つの城を取る 王翦が閼与(あつよ)・橑陽(ろうよう)を攻める → そのうえで全軍をひとつに統合 下級の役職者以下を本国へ帰し、十人に二人を選んで従軍 → 身軽になった軍で鄴と安陽を占領 → 原文は最後に「桓齮将(桓齮が将となる)」と記す ※原文はごく短く、兵の選抜の解釈には諸説あります
図2:わずか数十字の記述から読み取れる作戦の流れ

史実の「鄴攻略戦」は紀元前236年(秦王政11年)の出来事。趙が燕へ出兵して国内が手薄になった隙を突き、王翦(おうせん)・桓齮(かんき)・楊端和(ようたんわ)の3将が攻め込み、鄴を落としました。

司馬遷が記した中国最古の正史『史記』(「秦始皇本紀」「趙世家」「白起王翦列伝」)によれば、この年、趙は燕を攻めて貍(り)・陽城を手に入れ、その軍がまだ帰らないうちに秦が鄴に襲いかかっています。なお、このとき燕へ向かった趙軍を率いた将の名は『史記』に記されていません。名将・龐煖(ほうけん)だったとする見方もありますが、確かなことは分かっていません。

『史記』が記す流れは、次の通りです。

STEP
周辺城塞の攻略

王翦・桓齮・楊端和の3将が趙に攻め込み、まず鄴の周辺にある9つの城を奪います。

STEP
王翦が閼与・橑陽を攻め、全軍を統合

王翦は別に閼与(あつよ)・橑陽(ろうよう)を攻めます。どちらも太行山脈をはさんだ内陸側とみられる地で、趙の背後を揺さぶる動きです。そのうえで分かれていた軍をひとつに統合しました。

STEP
18日目の軍の再編

出陣から18日、王翦は「斗食(とうしょく)」=わずかな穀物で報酬を受ける下級の役職者以下を本国へ帰し、残りは十人につき二人を選んで従軍させました。こうして身軽になった軍が、鄴と安陽(今の河南省安陽市)を占領します。ただし原文はごく短く、この兵の選抜をどう読むかは諸説あるところです。

ここで見落としがちなのが、原文の最後にぽつんと置かれた3文字「桓齮将」。鄴と安陽を取った場面の指揮は桓齮が担ったと読めるため、「王翦が段取りをつけ、仕上げは桓齮が担当した」と解釈されることが多いのです。いっぽう「白起王翦列伝」は9城の攻略を王翦の功績としてまとめており、記述には少しゆれがあります。

将軍名史実での主な役割特記事項
王翦(おうせん)閼与・橑陽を攻めて全軍を統合し、18日目に軍を再編した中心人物のちに趙・燕・楚を攻略した秦の名将
桓齮(かんき)鄴・安陽を取った場面の指揮を担ったと読める(「桓齮将」)のちに趙の李牧と戦い、敗れて退く
楊端和(ようたんわ)王翦・桓齮とともに初期の侵攻を担当『史記』では秦の将軍。山の民の王という設定は作品独自のもの
『史記』秦始皇本紀の記述

「十一年、王翦・桓齮・楊端和攻鄴、取九城。王翦攻閼与・橑陽、皆併為一軍。翦将十八日、軍帰斗食以下、什推二人従軍取鄴安陽、桓齮将。」

(大意:11年、王翦・桓齮・楊端和が鄴を攻め9城を取った。王翦は閼与・橑陽を攻め、全軍を併せて一軍とした。王翦が将となって18日、斗食以下を帰し、十人から二人を選んで従軍させ、鄴と安陽を取った。桓齮が将となった。)

『キングダム』と史実の違い|朱海平原や列尾の戦いは創作?

漫画『キングダム』の鄴攻略戦は、「王翦らが鄴を攻め落とした」という史実の大枠をベースにしつつ、「列尾の罠」「城内の兵糧を尽きさせる作戦」「朱海平原の戦い」などは大胆にアレンジされたフィクション(創作)です。

『史記』をはじめとする史料には、この戦いの具体的な戦術や、朱海平原のような戦場名の記録は残されていません。作中のあの緊張感は、わずか数十字の行間を作者の原泰久氏がドラマチックに埋めたことで生まれたものです。

比較項目史実(『史記』の記録)『キングダム』の描写
侵攻のきっかけ趙軍が燕へ出兵し、手薄になった隙を突いた秦の昌平君らが立てた大作戦として描かれる
列尾の攻防記述なし(通過点のひとつ)「一度入ったら戻れない罠の城」として登場
鄴への攻め方18日目に軍を再編し、絞り込んだ兵で攻略周辺の住民を鄴に送り込み、内部から兵糧を尽きさせる
朱海平原の戦い記述なし(王翦と李牧の直接対決は紀元前229年)王翦軍対李牧軍の総力戦として描かれる
遼陽・犬戎族「橑陽」という地名は登場するが、犬戎族の記述はない楊端和率いる山の民と犬戎族の激戦として登場

史実の短い記述を「兵糧と時間をめぐる心理戦と野戦」へ膨らませたのが漫画版、という関係です。

学習のポイント

中国史を読むときは「正史(史実)」と「物語(創作)」を区別することが大切です。史実の骨組みを知ると、漫画の伏線やアレンジの巧みさがより深く味わえます。

現代の「鄴城遺跡」の見どころ|曹操ゆかりの銅雀台が残る古都

図3|鄴に積み重なった歴史(地層イメージ) 2012年 臨漳県・北呉庄で仏教造像2,895件(ほかに破片約3,000点)が出土 534〜577年 東魏・北斉の都となり、仏教文化の中心地として最盛期を迎える 204年〜 曹操の本拠地に。210年(建安15年)に銅雀台が築かれる 前236年 秦が鄴を占領(王翦・桓齮・楊端和による鄴攻略戦) 前5世紀ごろ 魏の西門豹が鄴を治め、漳河の水を引く治水・灌漑に取り組む
図3:戦国から現代まで、時代が層になって残る土地

現代の鄴には「鄴城遺跡(邺城遗址)」が広がり、曹操が築いた「銅雀台(どうじゃくだい)」の遺構や、大量の仏像が見つかった埋納坑など、時代をまたぐ史跡が集まる観光スポットになっています。

鄴は秦に落とされたあとも衰えませんでした。三国志の時代には曹操の本拠地となり、南北朝の東魏・北斉では都に。だからこそ「三国故地、六朝古都」と呼ばれ、重層的な歴史遺産が地下に眠っています。

  • 銅雀台の遺構(铜雀台遗址 / Tóngquè Tái yízhǐ): 曹操が建安15年(210年)に築かせた楼閣の跡。当時の姿は残っていませんが、三国志ファンには外せない史跡です。
  • 鄴城博物館・鄴城考古博物館(邺城博物馆・邺城考古博物馆 / Yèchéng Bówùguǎn): 鄴から出土した瓦や土器、修復された仏像などを展示。仏教考古に特化した展示が見どころです。
  • 北呉庄の仏教造像埋納坑: 2012年1月、臨漳県北呉庄で東魏・北斉期を中心とする仏教造像2,895件が出土しました。中国国内で見つかった仏像の埋納坑としては最大規模で、その年の考古学の大発見として注目を集めました。
中国語中級者向け・詩の中の鄴

唐の詩人・杜牧の詩『赤壁』の結び「銅雀春深鎖二喬(铜雀春深锁二乔 / Tóngquè chūn shēn suǒ èr qiáo)」は、もし赤壁の戦いで曹操が勝っていたら、江東の美女といわれた二喬は鄴の銅雀台に迎えられていたかもしれない——という歴史のIFを詠んだ有名なフレーズです。鄴の名は、詩の世界にも残っているのですね。

キングダムの舞台となった鄴は、三国志や仏教美術の聖地としても発展を遂げた、中国史上きわめて重要な文化遺産なのです。

まとめ|鄴は今も河北省に眠る歴史の要衝

鄴は現代の中国河北省邯鄲市臨漳県にあり、史実でも『キングダム』でも、歴史を動かす決定的な舞台となった重要都市です。

太行山脈と漳河に守られた地形の良さ、そして邯鄲に近すぎる立地。だからこそ紀元前236年の鄴攻略は、秦の趙攻めを一気に前へ進める一手になりました。

  • 鄴の位置: 河北省邯鄲市臨漳県(読み:ぎょう/邺 Yè)
  • 史実の戦い: 前236年、趙が燕へ出兵した隙を突き、18日目に軍を再編して鄴・安陽を占領
  • 現代の姿: 曹操の銅雀台跡と2,895件の仏像が出土した「三国故地、六朝古都」

『キングダム』の熱い展開と『史記』の淡々とした記述を行き来すると、中国史の面白さは何倍にも広がります。ぜひ中国語学習のブースターにもしてくださいね。

参考文献・出典

投稿者アバター
みやざわりこ 中国語ライター・翻訳者 / Chinese Language Writer & Translator
中国滞在6年の経験を持つ中国語ライター。翻訳・通訳の実務経験と現地生活を通じて培った実践的な中国語コミュニケーションの知見をもとに、リアルな語学情報を発信している。
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